仕事ってなんだろう?

ブログを立ち上げて早々で申し訳ないのですが、今回は愚痴を吐き出させてください。

僕自身がいつかこれを見返した時、「当時は人生のどん底だったなあ」と振り返られるように。

 

 

僕は、誰もが知る大手メーカーの販売子会社で働いています。

就職自体はメーカーでしたのですが、数か月間の研修が終わるとすぐに子会社である販社に、出向という形で赴任することになります。

メーカー自体は大手ということもありワークライフバランスが整っていますが、販社はまだ昭和時代の精神論が蔓延り、残業が慢性化し、変化することを事のほか避けようとしている向きがあります。

働いている諸先輩方は、陰で文句を言いつつも上司に対して主張することはできず、その上司はといえば営業活動をするわけでもなく、ミーティングが終わればどこかへ出かけていきます。

職場は腹の内の探り合いが常態化し、僕はその雰囲気の前に疑心暗鬼になりつつあります。何が本音で何が建前なのかが分からなくなり、先輩にも仕事のことを訊きづらくなってしまっています。

今年の9月に販社に赴任し2ヶ月半が経ちましたが、職場に馴染めず仕事もなかなか覚えられず、早くも能無しの烙印を押されてしまいそうです。

販社という言葉からお察しいただけると思いますが、僕は営業として入社しています。具体的には、メーカーと地場資本の販売店の間を取り持つ卸営業で、販売店から注文があった場合にメーカーに発注して製品を取り寄せるのが仕事です。

これだけ聞くと販売店の注文をメーカーに流すだけの簡単な仕事と思われるかもしれませんが、販売店はメーカーと独占契約を結んでいるわけではないので、複数のメーカーの製品の中からお客様に届ける製品を選び取る選択権があります。

つまり、販売店のお眼鏡にかなうよう必死に媚びを売り、何か要望があれば極力応えるようにしなければなりません。

僕はまだ新人扱いなのでありませんが、先輩の中には休日であるはずの土日に販売店に呼び出されている人もいます。

もちろんノルマも設定されており、これを達成できないと上司から精神的に詰められます。

売店はメーカーとは一切関係がない全くの別法人なため、独自で商売をしています。つまり、営業は販社と販売店の間に立ち、噛み合わない歯車をうまく調整し、お互いの利害を最大限一致させることが仕事になるわけです。

職場でも休まらず、外回りをしていても休まらない。これが僕の仕事の現状です。

 

僕自身仕事はあくまで幸福をつかみ取るための手段と考えていて、自らの身体を捧げてまで尽くすものではないと思っています。

だからなのか、周りから見て僕の就業態度はあまり思わしいものではないようです。

今日は先輩から仕事に対する姿勢の甘さをこんこんと諭されました。

お前の態度を見ているとこっちも教える気がなくなる、と。僕自身にも原因があることはわかっています。

成り行きで入った会社だし、売っている製品も大して好きなわけでもない。それを言い訳にして職務怠慢に陥っている。これが客観的に見た僕の状態でしょう。

しかし、自分に嘘はつけないのです。私はこの会社が、この仕事が好きになれない。

これが紛れもない私の本音です。その本音に覆いをして自分を偽るのは、精神衛生上好ましいとは言えません。

日本には本音と建て前を使い分けることが一種の美徳とされる文化がありますが、現在では足枷以外の何物でもありません。

仕事とはあくまで人生に彩りを与えるための手段の1つに過ぎず、人生における仕事の比重を増やすことは豊かな人生を送るためには避けなければならないことです。

バリバリ働くことを身上とする人もいらっしゃるかと思いますが、私は必要最低限の生活が保てればよいと思う人間なので、今の環境は私には不適合なのかもしれません。

今は労働力を会社に提供することでしかお金を得る手段がないので甘んじていますが、もし可能ならば、労働からの脱却を模索したいと考えています。

僕はまだ23歳です。あらゆる可能性を試していけば、道は開けると信じています。

 

お見苦しいところをお見せしました。

今回は以上となります。

過ぎ去った時に思いを馳せて

前史

1990年代から2000年代にかけてのアンダーグラウンド的な雰囲気をまとっていたインターネット界隈は、SNSの急速な発達によって大きな転換点を迎えた。草の根BBS時代から守られてきた「閉じられたネット」の不文律は崩壊し、ネットは大衆化を果たした。かつてネットにおいてマジョリティだった2ちゃんねらーをはじめとしたアングラ住民たちは、大衆化していくネットの波に呑まれ、ネットの中の一コンテンツに過ぎなくなった。

 

かつての「閉じられたネット」の世界では、「ROM」と呼ばれる文化が存在した。

これは「Read Only Member」の略であり、かつてのネット界隈を象徴する言葉でもある。

まずは掲示板に書き込むなどのネット世界への直接の介入はせず、そこで繰り広げられているやり取りを見て、自分はここでどのように振る舞うべきなのかを自発的に知ることが求められた。それを守れない者はネットから弾き出されるという、いわば自浄作用が働いていた。それによってアングラの雰囲気は保たれ、住民にとっての居心地のよいインターネットは、90年代から00年代にかけて、その全盛期を謳歌できたのである。

しかし00年代の終わりごろから、彼らの揺り籠たるインターネットはSNSや動画配信サービスの台頭によって、その様を大きく変えようとしていた。

 

ネットの大衆化

2010年代に入り、インターネットは限られた者たちだけの物ではなくなった。老若男女問わず数多くの人々がインターネットに触れる機会を得、かつての暗黙のルールは意味を為さなくなっていた。ツイッターをはじめとしたSNSには、坩堝を思わせるほどに無数の価値観が入り乱れ、様々な人が思い思いの考えを主張するようになった。このような状況下、2ちゃんねるに代表されるアングラ文化はもはやインターネットという大海の中の1つの小島に過ぎなくなった。かつて確かにインターネットの中心であったアングラ文化は、時の流れの中で完全に旧時代の遺物となったのである。

 

私見

僕自身はこの一連の流れは必然であったと思うし、いずれはこうならなければいけなかっただろうとも考えているが、一方で、かつて慣れ親しんだあの独特の雰囲気をまとっていたインターネットがもはや還ってこないと思うとやるせなくなる。僕がかつて頻繁にアクセスしていた「おもしろムービーズ」。一時代を築いたフラッシュ系の動画をまとめたサイトだったのだが、先日ふと思い立って訪ねてみると、真っ白なページの真ん中にぽつんと「閉鎖しました」の文字が並んでいた。そのとき、フラッシュ系動画を貪るように視聴していたかつての自分が脳裏に甦ってきて、哀愁とも取れる感情が沸き起こった。ネットの変化は止められないし、これからはさらに我々の生活に密着したものになっていくのだろうけど、そうなればなるほど、あの頃の「閉じたインターネット」に馳せる思いはますます強くなっていくのだと思う。

 

さようなら、アンダーグラウンド

我々の思い出とともにあらんことを。